えぞてくブログ

ITと北海道と日常と、そんな日々を綴ります

何故、私は会社を去ったのか

退職ブログです(無駄に長いです)。

予め断っておきますが、前向きな内容ではありません。 そして、私の前職に今も在職しているメンバーは、覚悟を決めて読み進めてください。今まで公にしてこなかった事を書いています。覚悟出来ないなら、ここで読むのを止めてください。

私は、いわゆるベンチャーfounderに近い社員でした。出資もしていないし、役員でもなかったので、founderというのは少し気が引ける。しかし、社員一号であり、また同時に(会社の存続期間に対して)長年中間管理職を務めさせて頂きました。30代前半でそういうポジションを頂けた事には今でも感謝はしています。給料は安かったけど(部下の方が高かったぐらい)。

中間管理職といいながら、プロジェクトマネージメントは本当に下手くそでした。何せ、元々が「スケジュール管理?めんどくせぇ。納期だけ教えてくれれば、自分でいい感じにやるわ」という自己完結、自己管理の人間。ろくな研修もない状態で、まともなステップアップもなく、突然事業部長に祭り上げられたので、そのあたりの素養が抜けていた。まぁ、SES上がりだしね(と言い訳)。

中間管理職になった直後は本当に酷かった。なんの因果か、SES先でその頃から炎上案件、曰く付き案件のオンパレード、おまけに残業代はなくなり、自社受託案件の炎上で(管理職ということで)賞与もカットされ、給与は激減した。あげく、社内受託案件の火消しを出来る人間がおらず、SES先を定時であがり、その後自社で炎上案件の火消しなんてのもやった。このあたりで気付けば良かったが、会社が好き過ぎたし、責任も感じていた。個人的なつながりで、会社に来てくれた人も少なくなかった。自分が辞めるという選択肢は頭に浮かびすらしなかった。会社を大きくしなければ、という使命感があった。

会社がいよいよSESから受託に重きを置き始め、社運をかけた案件を受注したということもあり、(現場的に)いささか無理をお願いする形で、自社に戻った。

大学を中退し、食いっぱぐれそうになり、僕にはITがあるじゃないか!と業界入りし、SESの世界に。そして、若くしてデスマーチを経験し、「こんなことしてちゃだめだ!」と、いつかは自社で受託をやる、という約束でジョインしたのが前職。やっと、ここまできた、というのが当時の正直な気持ちだった。出社しても、技術も分からないメーカー系糞プロパーにあれこれ言われない。それだけで幸せだった。

が、そんなものはすぐに吹き飛ぶ。SES上がりで教育なんてなにも受けていない自分にふりかかる、数字の話。PL?BS?CF?進捗売上げ?工事完成基準?ROE?ナニソレオイシイノ。社運をかけた案件のPMをやりながら、いよいよ中間管理職として揉まれ出した。ぶっちゃけ、寝る暇なんてなかった。当時、支えてくれた部下や妻には感謝している。そして、このころから不眠を患い今に至る。

幸い、お客様に気に入ってもらって、”社運をかけた案件”は上手くいって、その案件のステークホルダーとは長い付き合いになった。ステークホルダーではなくなった今も、個人的にフランクに付き合わせてもらっている。何しろ、前職で過ごした13年以上の年月で僕を圧倒してくれたのは彼だけなのだ。

だだ、社内はそうはいかない。ヒトには本当に苦労した。安っぽいメロドラマみたいな事件もおきた。何より、自分が社内に戻って早々、代表が営業拠点に移ってしまった為、プロフィット/コストセンターである本社に突然残された自分は、事業部の垣根を越えて本社の実質的な責任者になる必要があった。がむしゃらに自分の理想を念頭に頑張った。でも、孤独だった。「社員一号なんだから頑張れ」これが、代表が自分を中間管理職にしたときの殺し文句だった。じゃあ、社員2号は?3号は?誰もついてこなかった。「開発以外の面倒くさいことはあの人がやるから」という考えが透けて見えた。30代、僕だってエンジニアリングをいよいよ極めたい時間だった。でも、自分を殺して会社の、社員の為に頑張った。

そして2015年8月、その日はやってくる。脳卒中を発症した。朝方、トイレに起きて、用を済まして、トイレを出ようとしたときに、左手が動かなくて、スマホを上手く持てなかったのを今でも覚えている。その後、冷蔵庫から飲み物を取ろうとして、麻痺が足に至り思いっきりこけた。妻の早期発見により、一命を取り留めたが左半身に麻痺が残った。

入院中のことは割愛する。僕を担当してくれたリハビリの言語/作業/理学療法士の方々には頭が上がらない。今も感謝しかない。

自分の強い希望もあって、リハビリ病棟への転院はせず、倒れてから2ヶ月半で現場復帰した。今思えば狂気の沙汰だが、当時は会社に迷惑かけたくない、妻に迷惑かけたくない、ただその一心だった。

実際、自分が突如消えた現場は、大混乱だった。案件は燃え、原価コントロールはできず、社員は疲弊する。退職者も続出した。が、当時の自分にはそれをどうにかする力はなかった。そもそも、「歩く」だけで精一杯なのに、管理職としての責務を全う出来るわけがなかった。役員人事のお話しも頂いていたが、体力、メンタルともそんな状況ではなく、タッチタイプすら出来なくなった自分の生産性を許容できず、代表に謝り、役職を解除してもらった。そして、年度初めの肝いり役員人事が行われた。

会社は、自分が役員にいないどころか、降格した理由さえ説明しなかった。多くの社員が困惑し、説明を求める社員が自分のランチとディナーの予定を埋めていった。だが、復帰は早かった、4ヶ月ほどで再び中間管理職に復帰した。当時の会社の状況を鑑み、自分が復帰するしかないと思った。条件を色々付けたが、代わりに給与はカットされた。

自分が倒れた事による事業部の混乱は自分で収めた。他に出来る人間がいなかった。なんとか立て直し、事業部が安定したと思ったら、別事業部に異動となった。雑で乱暴な経営方針が自分の立ち位置を良いように利用し、中身の伴わない人事を行った。結論から言うと、1Qで元のポジションに戻った。だが、そこからがさらなる地獄だった。

管掌役員と代表の板挟みで追い込まれた。今の数字に責任をもちながら、新規事業の立ち上げをするには、協力者も環境も不足していた。追い込まれた自分を妻が止めてくれた。このままでは脳卒中で倒れたときのように限界を超えてしまうと判断した妻に連れられて、心療内科に行った。完全に鬱だった。強度の睡眠障害と鬱、普通に生きていくのが難しい状態にまでなっていた。

そこからはもう、閑職で細々と生きて行くのみだった。何の因果か念願のエンジニアには戻れた。だが6年以上のブランクや様々なしがらみが結局はつきまとう。

そしてその日が来た。とある社外イベントで代表とその取り巻きがやらかした。そこに至るまでのエンジニアの頑張りを水の泡にしたにもかわらず、扱ったものの話題性で集まった聴衆の人数だけでイベントは成功だと抜かしたのだ。エンジニアには労いの言葉もなく、取り巻きだけで、酒宴を楽しんでいた。退職を決意した。

その後、目に見えて会社はダメになっていった。経営層は責任をとらず、中間管理職に押しつけて、社員からは目を背けた。その状況で、自分の存在が社員にある一定の安心感を与えていたのは明白だった。

「あの人がいるんだからこの会社は大丈夫だ」

だから、会社を去った。創設メンバーの責任として、会社の危機的状況を伝えたかった。ただ、それだけだ。